|
イル・ド・フランス()は、1926年に竣工したフランスの客船である。'')は、1926年に竣工したフランスの客船である。 == 概要 == フランスのCGT(現CMA CGM)〔Compagnie Générale Transatlantique, カンパニー・ジェネラール・トランザトランティーク(fr)または「フランス・ライン」〕が北大西洋航路で第二次世界大戦を挟み1927年から1958年まで運行し、異彩を放ったキャビンサービスや船内インテリアデザインから、エスプリ客船と称され旅行者達に親しまれた。 フランス(1910 en)、パリ(1916 en)に続き、1925年起工〔この航路では他社より年間輸送人員実績で劣り不人気だったCGTは、数年を置いて一隻づつ更新していた。〕、イギリスのオリンピック、ベレンガリア(もとドイツ船インペラトール(en)〔ハパグ(ハンブルグ=アメリカン汽船)1913年竣工、1919年賠償船としてイギリスキュナード汽船に引き渡された。同型船にファーターラントen、マジェスティックがある。〕)、アキタニア(en)に次ぐ規模の大型船だが、CGTの野暮ったい外観船形デザイン〔CGTの運航する船の殆どは貨物船、貨客船で、南米、アフリカ定期航路を展開していた。〕と相まって船体設計は保守的、機関は旧タイプを採用し付帯設備機器類は最新という仕様で建造された〔第一次世界大戦で工事中断、戦後完成したパリ(1916 fr)と同世代の燃費の悪い旧式な機関を採用した理由は不明。推測で、1.造船所とエンジンメーカーでライセンス上の確執、2.造船所の経験不足。3.余剰物資の採用。4.フランス政府の郵便運送協定による助成金へ提出を急いだ建造計画(3.と関連する)。4.船主CGT側が大型舶用ギヤードタービンの信頼性に疑問を呈した、など。イギリス、ドイツで先行した4万トン超大型商船の造船技術では試行錯誤が付きまとい、イル・ド・フランスの建造も旧式機関採用で万全を期したにもかかわらず推進器、船体構造に由来する船体振動が発生した。その後実地運航のなかで原因究明が行われ対策は5年後のオーバーホール時に実施された。(『豪華客船スピード競争の物語』著 Denis Griffiths p149)〕〔『豪華客船スピード競争の物語』 成山堂書店 1998年2月 著 Denis Griffiths〕。船名はフランス首都圏のイル=ド=フランス地域圏に因み、1926年5月29日竣工したが就航は同時代の最大級の豪華客船のなか異例に遅い翌年6月で、船体完成後も船内インテリアで個客室などに自国の代表的木工家具作家エミール=ジャック・リュールマン等特注品にこだわり、パリ万国博覧会 (1925年)の成功から調度レイアウト、食器や備品でコンペティションを採りその調整に長い期間を設け〔船舶客室のインテリア・デザインにコンペティション方式は初でのち、また船内アメニティのあり方を追求したCGT社長ジャン・ドール・ピアズ / John Dal Piaz(fr)に負う部分が大きい。〕、キャビンサービス訓練など準備や上流階級でCGT贔屓乗客に向けて新造船についての紹介冊子を送付する当時先駆的なダイレクトメール、カタログによる発行の営業活動を行うなどそれまでの大型豪華客船と異なった。 1927年6月22日にル・アーヴル出港、処女航海に就き、ニューヨークに到着する。在来船で高評価を得ていたキャビンサービスやフランス料理に加え、従来とは刷新され開放感に富むアール・デコデザインのキャビンレイアウト、特に四階ぶち抜きの一等船客ロビーは前代未聞で〔後年の大型客船がこれにならい模倣する。〕〔NTT出版『豪華客船の文化史』野間恒著、第六章「活気溢れる一九二〇代」(一)フランスのエスプリ客船 p.167〕、陸上と遜色ない充実した娯楽室、一等室はホテル以上マンションに近い間取りを再現しその439室それぞれでインテリアデザインは異なり、配置された家具調度、最新設備の快適さが大評判となった〔前二隻で試行したキャビン・レイアウト(船室間取)は、本船で完成し、ノルマンディー、フランスに引き継がれる〕。 アメリカ出発の旅行者にとって、CGTの定期船にはブルーリボン賞船の速度は無く利便性は薄かったが、異国フランスの建物に入った錯覚にとらわれる刺激、故郷への訪問者には安堵感や郷愁、贅沢感をもたらした。さらなるエスプリ客船のイメージ創りに、CGTは「ギャングウェイ(乗船用の移動式渡り廊下)を渡って乗船したら、もうそこはフランスです」というキャッチコピーでアピールした〔NTT出版『豪華客船の文化史』野間恒著、第六章「活気溢れる一九二〇代」(一)フランスのエスプリ客船 p.167〕。 乗客定員1786人は手厚いサービス提供の上限から定員以下の1400人止まりだったが、CGTはニューヨーク急行便の好調でこの年過去最高益を上げ、またイル・ド・フランスの一等客室は1935年まで〔同社のノルマンディー就航〕この航路の人気首位を維持し、1938年までの十年間では平均船客数は一航海当り795人の消席率を誇った〔移民法改正以降、旅客輸送でフランス(1910 en)以降の船質改善とCGTの努力からニューヨーク急行便と普通便、ボストン線などの北米定期便も人気になった。〕。 1928年7月から1930年10月の間、カタパルトを船尾に設置し、飛行艇リオレ・エ・オリビエ、H-198または、CAMS 37を搭載し、到着1日前(または100マイル手前〔200マイル手前とする資料もある。〕)に発信させる郵便先達サービスを行った〔正式に1928年8月13日開始。〕〔 http://aama.museeairespace.fr/amismuseeair/pages 〕〔〕が、 天候や技術面で実績は振るわず〔1928年4回、1929年8回、1930年12回〕、コストを理由に廃止された〔その後1929年7月就航のドイツ客船ブレーメンと姉妹船オイローパが新造から装備して1935年まで行っていた。またイル・ド・フランス以前ではカタパルト実用化前の時代に仮設滑走板を設置し実地実験が何例か試行されている。 〕。 1939年9月3日の朝、フランスはドイツに宣戦布告した。その数時間前「イル・ド・フランス」はル・アーヴルを解纜、日増しに避難者や帰国者が増加する中、この便では定員を400人超える状態で、豪華なサービスも行き届かない難民船状態だった。臨戦警戒で灯火制限が敷かれ、相次ぐフランス国籍船への攻撃と亡失の情報を受け取る緊張のなか、9月9日ニューヨークに到着した。会社指示で復航は取りやめ、100名ほどの保安要員を残しニューヨーク沖に停泊した。 1940年3月連合国側に接収され同年5月1日イギリス軍事輸送船としてヨーロッパ、シンガポール、オーストラリアを運行、1942年10月南アフリカ、ポート・エリザベスに寄港、ここで調度装飾を破壊撤去して兵員輸送船へ改装した。 戦争終結の1945年秋、イギリスからCGTに返還されたが1947年までアメリカ、カナダへの復員専用に提供され、解傭後の同年4月サン・ナゼールにて復旧修理と改装が行われる。物資不足や戦時の破壊と酷使で2年に及ぶ長期工事の末、ダミー・ファンネル〔第三煙突は機関室換気と発電補助ボイラー排気に当てられていた。〕 を撤去し二本煙突の新装で1949年7月、北大西洋航路に復帰する。戦前同様の厚いサービスで好評を博した。 豪華客船中の豪華客船と謳われる「イル・ド・フランス」には「''大西洋のセント・バーナード''」という異名もあった。これは同船が数多くの海上救難を行ったことに由来するもので、1932年に船客を見送りに来た民間機が同船付近で墜落したのを救助したのを皮切りに、1951年には機関室浸水で漂流していた英貨物船「チェズウィック」をエスコート、1953年には荒天で沈没した英貨物船「グリーンヴィル」の乗員26名中24名を救助、1958年にはスウェーデン客船「クングスホルム」で病気の船客に吸入させる酸素が不足したのに対して補給を行い、その2週間後にはオランダ貨物船「ソェスダイク」の乗員が虫垂炎になったのを引き取って、船客の外科医の執刀によって手術を行った。開腹したところ、既に虫垂穿孔から腹膜炎を来しており、本船で手術が行えなければ致命的になりうる状況であった。さらにその10日後には、リベリア船籍の貨物船から喘息の乗員を引き取り、船医が治療を行っている。 このような多くの救助実績のなかでも、最も有名なのが、1956年7月25日「アンドレア・ドーリア」遭難事件への対応である。遭難信号傍受後、船長ボーディアン男爵はただちに復路を中断し反転、救助活動に向かった。この事件では衝突の直接犠牲者を除き1660名の生存者が救助されたが、このうち、本船は754名(船客576名、乗員178名)を収容している。事故発生時「アンドレア・ドーリア」の船長以下乗組員は被害状況をすみやかに把握し整然と避難誘導を進め、また事故発生時の濃霧から好転した気象条件と「アンドレア・ドーリア」の救難信号に応答した船舶6隻の密接な連携から、この事件は海難救助の好例の一つとされる。また巨大な「イル・ド・フランス」の存在は遭難者に安心感をもたらし、疲労や衰弱に対して熟練した救難介護経験が発揮された。この救助活動は世界中から賞賛を受け、その功績によって勇敢な船への授賞を受けている。非アメリカ船籍の船としては異例なことであった。 フランス(en)の建造に伴い1958年引退、 スクラップとして1959年日本に売却、ふらんす丸と改名し映画「最後の航海」(en)のロケ、セットに使用され〔映画では「沈没」したが実際は沈んでいない。〕、 大阪で解体された。その際にいくつかの装飾品が徳島県立博物館に引き取られた〔第3章 1館長回顧文 - 徳島県立博物館(4)フランス客船の美術品「昭和34年5月29日(中略)イル・ド・フランス号(44.356トン)に乗船し(略)博物館装飾品として寄贈する旨申し出があった。一等船客用食堂サロンの壁面の裸婦石膏像・シャンデリアの一部・油絵2点・レターデスクの譲渡方を依頼した。」〕ほか、戦争等による休業から再開を図っていた摩耶観光ホテルの内装品としても使用された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「イル・ド・フランス (客船)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|